平和集会で考えたこと

*本の書評ではありません。
2月11日
十勝の平和集会に行ってきました。
集会は第一部と第二に分かれて
登壇する方の「講演」と言うより
登壇者と対談/インタビューの形で
とても興味深い集会でした。
第一部のZ世代の若者の話の最後に、
「平和活動すると必ず分派が起こる。
グループ内で、ちょっとした相違から
分断が生まれるが、
それを止められないだろうか?
どうすれば良いだろうか?」
この問いが会場に投げかけられた。
そうそう、そうなのよ。
これ、平和活動あるある。
第二部は長年平和活動を牽引してきた
年配者お二人の話。
十勝の平和活動の歴史を
垣間見るような話と資料に圧巻!
第二部をファシリテートしてくれた
青柳さんがご自身のリサーチの中で
「戦後80年になるまで
日本が戦争をしなかったのは、
戦争経験者達の平和作りの
地道な活動があったからだと感じた」
そこから今回のお二人への聞き取りが
始まったと言う。
終わってから会場から
「お二人が長年平和活動をされてきた
その原動力は何か?」の問いに、
お二人とも明確なものはなかったが、
「大切な人との出会い」と
「そうせざる得なかったから」
と謙遜に言われた。
そこで私が
第一部の若者の問いに触れて、
非暴力の平和作りは「良い」こと、
「正しい」ことなので、
平和活動をする時に誰もが
自己義認に陥りやすく、
そこが分派になる原因だと思うが、
そこを踏まえて、
長く活動する秘訣・ヒントは?
と問いかけてみた。
答えは、
「その問いとの闘いだった。
なので、一緒に活動をする、
その事以外は、目をつぶってきた。
多少の意見や考え方の違いはあるが、
そこは除外するというか…
むしろ、
その問いを問い続けてきたし、
今も問い続けている。」
やっぱり、そっかぁ…
と思いつつ、改めて考える。
運動体 movement
である平和活動は
大きくなると分派することは
避けられないのかもしれないが、
ある程度は避けられるようにも思う。
少なくとも、無駄な分派は
避けられるはずだと思う。
なぜなら
分派の原因は、人・人間だから。
平和の働きは
人間の身体性と似ているのではないか
と私は思っている。
それは「命」に係わることだから。
政治的・外交的な平和の事も
環境的な事、
福祉や医療に関する事、
私たちが生きること全ては
平和作りなのだと思う。
しかも、その平和は
非暴力の平和作りでなければ
意味はない。
平和作りの為と言いつつ
グループの中で、話し合いの中で、
言葉の暴力や圧力
議論をし尽さない多数決という
数の暴力、
まして心理操作の
マニュプレートは
究極的な自己愛の現れで、
大本営と変わりないように思う。
ただ私達が人間である故に、
愚かさや欠けがあるが故に、
こうした過ちを犯す可能性を
常に持っているという自覚
が必要なのではないか
と思う。
コツコツと地道に行う
非暴力の平和作りのDNAは
その身体性の中に根付いていく
のではないか(笑笑)と思っている。
少なくとも
今日、集会で出会った人々
登壇者たち、ファシリテーター達には
そのDNAが根付いていたと思うし、
そのDNAは若者に
確実に引き継がれていたと思う。
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